「行動障がいはつくられる!~こころのあり方に目を向ける~」 |
もくじ
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はじめに サポート研通信18号の巻頭でも触れましたが、「利用者主体の福祉」からまだまだ遠い所におかれている人たちがいます。それは激しい行動障がいを示す人たちです。
なぜ、このような理解しにくい行動をする人が出てくるのでしょうか?それは、本人の主体性が損なわれた結果です。 私は、知的障がい児通園施設で26年間、自閉性障がいを含む知的障がい児やその家族と出会い、幼児期から学齢期、青年期、成人期を通して継続的に相談と支援に携わってきました。長く関われば関わるほど、「行動障がいはつくられる!」と確信を持つようになりました。 行動障がいは、本人が持って生まれた問題ではありません。明らかに、本人と周りの人との関係、つまり本人の理解、支援や関わりのあり方によって二次的、三次的につくられたものです。それだけに本人や家族の支援に携わる者としての責任は重く、本人の立場に立った理解と支援を追及していく使命があると感じています。 |
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行動障がいを示す人の置かれている状況 (1)理解の出発点 行動障がいを示す人は、その行動があまりに極端で激しいため、ややもすると当たり前の見方ができなくなりがちですが、けっして私たちと気持ちを通じ合えない「特別の人」ではありません。ひとりの人間として、その人なりの意思、気持ち、内面の世界を持っています。人間は、こころが平穏(納得、満足、心地よい)な状態にあれば、「あえて自分を傷つける」「他の人を困らせる・傷つける」「自分が嫌なことを必死でする」ということは普通しないはずです。激しい行動障がいを示す人は、それだけ苦しい状況におかれていると考えるのが妥当でしょう。 ところが、その行動があまりに極端になると、「障がい者だから」とか「反射的にしている」「独特の周期を持っている」「訳の分からない人」というふうに、私たちに理解できない存在と映り、本人の置かれている状況や内面(こころ)への共感的理解が困難になります。そこに、大きな難しさがあると思います。 |
(2)攻撃行動と自傷 苦しい状況に置かれると、本人は不快・不安・不満・痛みなどを言葉でうまく伝えることができないため、直接的な行動で必死に伝えようとします。たとえば、噛みつく、頭突きをする、叩く、つねるなど、攻撃的な行動は、人を傷つけようとするものではなく、自分の感じた怒りや痛みを体ごと相手にぶつけて訴えている行動と考えられます。「そのとき私たちが感じる痛みは、その人が伝えたかった痛みそのものではないか」と捉えると、一連の行動の意味がよくわかります。苦しい分だけ叩き方は強くなります。 同じように、自傷は、心の中に湧き起こってくる怒りやいらだちを人にうまく伝えられないとき、自分自身に内向した行動です。怒りやいらだちが大きい分だけ、それを打ち消そうとして強く自分を傷つけることになります。「人を攻撃するより、自傷の方がまし」とか「彼らは自傷を快感と感じている」「痛みの感覚がない」という人がいますが、それは誤った認識と言わねばなりません。
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(3)本人の意思を軽視した指導・訓練のもとで 行動障がいの背景には、必ず本人から見て、不本意な経験、過度の我慢の蓄積があります。その人にとって何が苦しいのか、何が不本意なのか?それは、本人と周りの人たちとの関わりのあり方に目を向けるとあきらかになります。 たとえば、学校や施設において、「障がいを克服する」「自立に向けてできることを増やす」ために、学習、課題、作業、躾など、熱心に指導・訓練をしていて、それが大きなストレスになっている場合があります。声をかけても、「目を合わせない」「うつむく」「表情がこわばる」「なかなか取りかからない」などは、「とまどい」や「拒否の意思」があることを表わしています。作業や課題を始めても、「進まない」「しきりに手を止める」「手許を見ない」「少ししては指を噛む」「身体を激しくゆする」などは、かなり我慢している兆候と見受けられます。スタッフが「○○させたい」「△△はさせない」など強い期待や要求を持っていると、本人の訴えがどの程度切実なものか、あるいは適度の我慢であるか否かを判断することは困難です。特に威圧的な態度で臨む人に対しては、自分の気持ちを率直に表わすことができません。 本人の訴えを軽視・無視して課題を強要し続けると、「支援者の顔(色)をうかがう」「おどおどした様子」が出てきたり、苦痛を逃れたいあまり「(嫌なことは)さっさと済ませる」「指示されたようにする」ようになります。これは「服従」と言った方が適切かもしれません。さらに我慢が重なると、「いつも同じようにしないと気が済まない」「嫌でもやめられない(やめても良いと伝えても)」「“する-しない”の葛藤で身動きできない」など、自分自身の欲求さえ率直に表現できなくなってしまいます。 また、なかには、「座り込む」「動かない」「攻撃的になる」など、かなり強い訴えや抵抗を示す人もいます。懸命の意思表示を認めずに徹底して力づくで服従させる指導をし続けると、反抗と強制を繰り返すなかで、心のなかに人に対する根強い不信感、警戒心が植えつけられることになります。極度に身体を緊張させたり、感情の表現が極端になったり、身体を触らせないなど、後々まで癒しがたい傷が残ります。 これらの行動の変化を「指示が分かってきた」「自分でできるようになった」と一面的に解釈・評価してしまうと、それは大変危険です。いずれどこかで激しい行動障がいが発現する深刻な状況に本人を追い込んでいくことになります。こうしたことを、関係者は知っておかねばなりません。
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(4)いらだちや怒りを必死で訴える姿 行動障がいが発生する背景や構造は、生活全体を見渡してこそはじめて見えてきます。日中の活動の場(学校、施設など)、生活の場(家庭、グループホーム)、その他(専門機関での助言・指導)など、それぞれの場における経験の内容だけでなく、場による行動の違い、その関連性や意味を考える視点が必要です。たとえば、学校や施設で問題がないように見えても、本人が過度の我慢や諦めの気持ちを抱えている場合は、家庭に帰ってから、必ず何らかの兆候が表れます(その逆もあります)。そのときどんな行動で訴えるかは、その人の自我の強さ、コミュニケーションの力、人との関係の深さ等によって様々な形を取ります(攻撃的行動、人への要求、不機嫌、物へのこだわり、多動など)。 本人は「○○はしんどかった!」と言葉で伝えられないので、「分かってもらいたい人」「分かってもらえそうな人」(たとえば、母親)に掴みかかる、噛みつく、叩くなど、身体ごと訴える人もいます。また、自分のしたいこと、好きなことなど、欲求を何としても実現しようとする人もいます。「際限なく電車に乗ろうとする」「家に帰りたがらない」「好きなジュースを何本も買っては、飲まずにこぼす」「特定の物を見つかるまで探させる」「ビデオの特定の場面を何度も繰り返し見続ける」など、「なぜそこまでこだわるのか?」と思うほど固執します。指導・訓練で不本意に心のエネルギーを費やした分、自分の自由が利くところで思い通りにしないと気が済まなくなるのです。不本意な思いが大きければ大きいほど、行動は極端で激しいものになります。 このような激しいいらだちや怒りを直接受け止める親(特に母親)は、その行動の背景が分からないまま、その場の対応に苦慮します。「しんどさ」の核心に触れることなく対応せざるをえないので、本人からの要求や訴えがどんどんエスカレートしていきます。そのため、親は見通しが持てずに、心身が疲労してきます。「このままやっていけるだろうか」という不安が大きくなり、自信を喪失していきます(それと呼応して本人の不安も増大していきます)。
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(5)連携の必要性と難しさ 本人の様子を心配して、学校や施設の職員に本人の様子を伝えたり相談する親もいます。しかし、必ずしも深刻な状況を理解してもらえるとは限りません。指導しているスタッフは、激しい行動障がいを目の当たりにすることがなかったり、同じ行動を見ていても親ほど重大に感じなかったりするなど、深刻な状況でもピンとこないことも多々あります。なかには、逆に、家での対応に問題があるかのように言われたり、「家でも○○させてください」と指導されたりすることさえあります。「そんなにしんどいなら(入所)施設に預けたらどうですか」と勧められたりすることも稀ではありません。親は八方塞がりになってきます。
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(6)緊急時の援助の不備 行動障がいが激しくなると、家庭で対応しきれなくなる事態が起こってきます。ショートステイを利用するにしても、本人は行きたくて行くわけではなく、その上慣れない場所、なじみのないスタッフのもとでは、安心して過ごすことは困難です。荒れる、不眠、拒食に陥るなど、かえって状態が悪化する場合も多々あります。良くない状態で家に戻るため、家族は次の利用をためらい、本人も嫌がるため、ぎりぎりまで家族が抱え込むことになります。
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おわりに 本人と家族に対する支援を通してはっきりしてきたのは、地域生活を支える制度と同時に、本人が「何を望んでいるか」「どう思っているか」を理解する視点がいかに大切かということです。行動障がいを示す人が、「必ず理解してもらえる」という前向きな気持ちを持って地域生活を送ることができるために最も大切なことは、次の2点です。ひとつは、困ったときに、安心できる人間関係が持てること(その人にとって「心の拠り所」ができること)、ふたつめは、本人の主体性を尊重し、本人の望んでいることを一緒に実現し、自分を肯定して生きていけるような援助です。そのためには、乳幼児期からその支援があり、学齢期、成人期を通して継続され、一貫して引き継がれていくことが必要だと思います。 現在、行動障がいのある人たちに対する支援体制は、まだまだ不十分です。今回の制度改革によってますます難しい状況になる可能性があります。しかし、私たちは障がいのある人のより良い自立を支える支援を今後も創っていかねばなりません。その中にあって、行動障がいの問題は、一部少数の人のこととして片づけるべきではありません。なぜなら、行動障がいを示す人の理解と支援は、「障がいをどのように理解するか」「人として生きる上で何を一番大切にするか」という「支援の本質を問う」きわめて重要な福祉的課題だからです。 |
サポート研通信24号 2005年11月 |
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